社団法人 日本演劇協会の沿革

 当協会が昭和26年(1951年)4月18日創立された経緯について前北條秀司会長は、創立3周年第1回演劇人祭のパンフレットで次のように要記して述べています ─ 。

「私たちがまだほんの劇作家の卵であった頃、山本有三の『女親』事件というのが新聞の上で大きく報道された。なんでも帝国劇場で大倉翁の古稀か何かの祝いがあり、その日に限り上演中の『女親』に無断改訂があったというのだが、作者である山本有三を痛憤させた。劇作家協会の会員全体が一丸となってそれに抗議し、遂に主催者側を謝罪せしめたという事件であった。わたしが劇作家協会というものの存在を知ったのはその事件によってであった。おそらく社会が協会の存在理由を知ったのもその時ではなかったろうか。劇作家協会は上演料の算定方法等に就ても慎重な研究を続けていたようである。後年わたしたちが協会を運営する事になってからも、当時の劇作家協会から学ぶ事がすこぶる多かった。
 劇作家協会はその後姉妹団体の小説家協会と合体して、文芸家協会という組織を形成した。
 日中戦争がはじまって間なしに、久保田万太郎や亡き高田保等が主唱して、日本演劇協会が誕生した。これには劇作家のみならず演出家、装置家、照明家等舞台芸術に於けるあらゆる分野が編入された。
 (中略)
 終戦とともに大部分の文化団体が自然的解消を余儀なくされたが、やがてわたし達は劇作家組合なる呼称の下に立直った。組織も拡大されて、新劇、大劇場演劇の他に、新しく中小大衆劇場の演劇人達をも迎入れ、戦後劇壇の諸種の困難な問題を一つ一つ処理しながら、どうにか焦土の上に往年の舞台芸術をふたたび花開かせることに成功した。その数年間はいまから考えて、協会の歴史の上で一等困苦に充ちた時代だったと思う。
 昭和26年4月、劇作家組合は再び日本演劇協会の名に還った。今度はその部門に、評論部、ラジオ部、劇団経営、制作者部門等の部門が加わった。文字通り全日本の演劇人の結集が茲に確立したのである。
 (中略)
 わたし達は協会によって、縦には日本の演劇文化を進展せしめ、横には演劇人各個の生活を向上せしめようと企図している。…」

 このような経緯をへて日本演劇協会は昭和26年(1951年)4月18日、午後1時から国会図書館エジプトの間に於て、演劇界の有志60余名が参集し、定款審議、会長、役員の選任が行われ、ここに全演劇人の総結集、四部会構成の日本演劇協会が創立されました。そして以下の錚々たるメンバーが役員等にその名を連ね、日本の演劇界の新たな歴史が開始されたのです。

 顧  問

青山 杉作 秋田 雨雀 大谷竹次郎 岡田八千代 折口 信夫
河竹 繁俊 鏑木 清方 岸田 國士 久米 正雄 小宮 豊隆
satomi-ton 辰野 隆 高橋誠一郎 高安 六郎 土方 与志
谷崎 潤一郎 新関 良三 長谷川 伸 古垣 鉄郎 正宗 白鳥
武者小路実篤 安田 靱彦


 会  長

久保田万太郎

 専務理事

北條 秀司 = 劇作部長兼務

 常任理事

菅原  卓 = 演出部長  北村 喜八 = 評論部長  吉田 謙吉 = 美術部長 

阿木 翁輔   安藤 鶴夫   金貝 省三   千田 是也

共切 光蔵   吉川 義雄  

 理  事

秋月 桂太 穴沢喜美男 秋山安三郎 伊馬 春部 戌井 市郎
内村 直也 遠藤 慎吾 大江良太郎 小沢不二夫 岡倉 士郎
宇野 信夫 北川  勇 木下 順二 久住 良三 河野 国夫
佐々木孝丸 斉藤 豊吉 杉山  誠 東郷 静男 竹越 和夫
利倉 幸一 遠山 静雄 羽田 義郎 土方 政巳 真船  豊
三林亮太郎 水木 洋子 村上 元三 八木隆一郎 山田  肇

 監  事

菊田 一夫 戸坂 康二

 評 議 員

渥美清太郎 木村 荘八 守随 憲治 伊藤 熹朔 金子 洋文
川口松太郎 関口 次郎 高田  保 南江 治郎 中井 正一
土方 与志 三宅周太郎 本山 荻舟 山本 修二


    
事務局長 : 知切 光蔵
    
顧問弁護士: 居城 軍治
    
会員総数 :  200名
    
国際委員会: 南江 治郎
    
企画委員会: 北條 秀司
    
無断上演対策委員会 : 内村 直也
    
上演料審議委員会  : 佐々木孝丸 

 そして2年後の昭和28年(1953年)12月25日付をもって社団法人として認可され、今日に至っています。